公開日: 2023/08/19
ところで、相棒のChin号!(軽自動車の愛称)はエンジン警告灯が点きっぱなしである。
どこに不満があるのかさっぱりかわからないので、警告灯に気づかないフリをして運転している。お腹が痛いのに快速電車に乗るような、一発触発系の心持ちである。さっさとヨーロッパに行って修理に出すべきなのだが、
「ゴビ砂漠に、ラクダがいるって!」
妻Yukoのひと言で、モンゴルへ向かうことになった。往復2000kmの寄り道だ。警告灯が知ったら怒り出す距離である。
バイカル湖にほど近いウランウデ市で左に曲り、荒涼とした大地を南へ下った。ここ2000年くらいお手入れをしていないような、肌荒れした土漠だ。
国境を越えてモンゴルに入り、ひたすら南下してゴビ砂漠に向かった……、ら、もうラクダがいた。
道中、やたらとラクダに遭遇したので、ゴビ砂漠では感動しなかった。
首都ウランバートルへ向かう道すがら、Yukoが
「草原のなかで、車中泊してみない?」
いいねー、ロマンチックかも!
グイッとハンドルを左に切って、草原を走ってみた。
馬やラクダに挨拶をしながら、大地を走る。丘の上に立って、遠くヨーロッパを眺める。目を凝らせばエッフェル塔くらい見えそうだ。
地球全体が見渡せそうな雄大な景色を前にすれば、いくら温厚かつ出世欲のないわが輩だって、どれどれ、拙者もひとつ、世界でも征服してみようぞ、という気になるものだ。
Yuko、今夜はここに泊まろう。
とは言ったもののちょっと待てよ、あまりにも目立ちすぎはしまいか、と不安になった。世界中から見られているような、地球規模の檜舞台だ。横綱級の不良に目をつけられて、カツアゲされそうである。
そこで、あたり一帯を走り回り、移動式住居のゲルを見つけて訪ねた。
「すみません、日本から来ました。この小さな車で。すごいでしょう? ところで今夜、ゲルの横で車中泊していいですか?」
少々小太りのおばさんが出てきて、目を見開いて固まってしまった。
ひと言も通じていない手応えは、十二分にある。しかし、そこは笑顔で以心伝心。握手をすれば了解を得たようなもの。という解釈をして、ま、そういうわけでございますから、ひとつよろしくお願いします、また明日、おやすみなさいと手を振りながら後退りをした。おばさんのゲルから付かず離れずの距離にChin号!を停めた。
トイレはない。隠れるところもない。気をつけないとおばさんのお土産を踏むことになる。山羊だかなんだか正体のわからない頭蓋骨が、恨めしげにこちらを見ている。
そんな丘に夕陽の赤が差し込んできた。狼の遠吠えを聞きながら眠りにつこう。呑気なことを言っていたら、夜、吹雪になったのである。Chin号!は大海原に投げ出された小舟のように、揺れに揺れた。
歴代の横綱たちが突っ張りをかましてるような衝撃が続き、そのうち、居ても立っても居られないくらい寒くなった。すべての服を着て寝袋にくるまっても寒い。というより、痛冷たい。ってか、痛い。
生粋の道産子なので、寒さにはめっぽう強い! ということはなくて、すべての筋肉を硬直させて、毛穴に忍び込む冷気をシャットアウトしようとしたが、夏用の寝袋では叶わなかった。
「どうして、夏用?」
語ると長くなるので割愛するが、モンゴルはマイナス50度になる極寒の地。冷凍車より寒いのである。冬用の寝袋で何の心配もないように眠るYukoにしがみついて、生きながらえたのだった。
翌朝、ドアを開けたら、銀世界だった。そして、大切なことに気がついた。
冬タイヤを持ってきてないじゃん!(第5話に続く)
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