公開日: 2023/08/19
サハリン島では逃亡者のように身を潜めていたが、間宮海峡を渡ると一変する。ロシア本土は、車中泊天国なのだ。
ヨーロッパに続くシベリア街道には、数十キロごとにガソリンスタンドがあり、安食堂がある。一食300円もしない本場のロシア料理は、値段相応のB級グルメを楽しめる。食後は、一杯30円の本格的インスタントコーヒーを飲みながら、仕事に精を出した。
筆者は2005年から18年間、一度も遅配することなく社会保険を納めている海外放浪型リモートワーカーなのだ。こう見えても、自称ワーク・ライフ・バランスの模範生である。平素より、厚生労働省に表彰される逸材として襟を正し、無職にならないよう踏ん張っている。
22時ごろに食堂が閉まると、お店の前の駐車場で車中泊をする。食住近接、便利この上ない。長距離トラックのドライバーも寝泊まりするので、周囲は壁のような大型トラック群。強盗どころか、クマやトラも近寄ってこない。それでいて、一泊無料〜200円というリーズナブルな価格設定。
便利、安全、格安と三拍子揃った道の駅「シベリア版」に、ひとつだけ勘弁してほしいことがあるので聞いてほしい。
トイレ。なんとかなりませんかね、あれ。
サッカー場のようにだだっ広い駐車場の、この世の果てみたいな隅っこに、電話ボックスくらいの粗末な小屋が、それだ。
ドアノブすらないドアを開けると、穴。それだけ。ボットン式。金隠しなんてオシャレなものをつけてくれとは言いませんから、せめて照明をつけてくれませんか?
暗すぎて、パンツを下ろすのがたいへんなんです。
暗すぎて、ポジショニングできないのです。
暗すぎて、トイレットペーパーを使いこなせないのです。
それに秋ともなると床が凍って、滑ります。
そんな恐ろしい“闇便”については、稚書『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』(WAVE出版)に譲るとして、道の駅「シベリア版」の落とし穴は、もうひとつあります。
頭が痒い。シャワーがなくて。
3泊も車中泊をつづけると、ぽりぽりに痒くなります。ボクの頭皮はデリケート肌なものですから、誰よりも痒いのです。数値化すると、100点満点中200点くらい。それを我慢して4泊目に突入すると、夜、痒くて眠れません。不眠症のさなか熟睡していると、朝は痒くて目が覚めて辛いです。
5連泊もした日に思わず一句浮かんで、
──掻いても掻いても わが痒み 楽にならざり ぢつと手を見る
ロシアの言い伝えに、「モスクワから離れれば離れるほど、善良ないいロシア人」というのがあるそうだ。シベリアをドライブすると、その言葉が身に染みてくる。
「困ったら、いつでも電話をしてくれ」
電話番号をくれたのは、昼間っから飲んでいた坊主頭のウラジミール氏。顔は極悪人だが世話好きの酔っ払いで、トラックの運転手。数字に見えないほどの達筆なメモを、10分おきにくれた。
ハバロフスクの町で、ロシア人カップルにドライブに誘われた。
危機管理上、海外では知らない人の車に乗らないことにしているが、断れないほど感じのいいご夫婦だったのだ。たとえ誘拐されたとしても、お断りしては失礼かと思ったのだ。
ピオネルラゲリカラヴェラルラとかいうネットで調べても出てこない謎の公園で、小学生の男子が100回くらい叫びそうな「珍宝島」を眺めて記念撮影をした。折から花火が上がり、ウスリー川に大輪を咲かせては消えた。
ハラショー! ボクらは手を叩いて喜びあった。何かと因縁のあるロシア人と花火を眺める、いいではないか。人種を超えた友情である。町のあちらこちらに「対日戦勝70周年記念」と書かれているが、誘拐しないでくれてありがとう。ゆで卵をご馳走になった。
ビロビジャンの町では、洗車場のオヤジに「あんたたち日本人か? いいところに連れてってやっから」と車に乗せられた。経験上、知らない人の「いいところ」には近寄らない方が無難なのだが、断ると気の毒なくらい気さくなおじさんだったのだ。
彼の車が向かった「いいところ」は、森のなかの奥底。うかつに近寄ると撃ち殺されそうなロシア軍基地だ。厳重な警戒体制をかきわけて、冗談が通じそうにない鋼鉄顔の兵士に「この日本人に、ミサイルを見せてやってよ」ってお願いして、こっぴどく怒られていた。
モスクワから遠いロシア人は、いい人である。